未完成な生き方を愉しむ

私たちはつい、「できるようになること」を成長だと思いがちです。


仕事ができるようになったり迷わず決められるようになる。

できることが増えるのはうれしいしそこには確かに成長があると思います。


一方で、

「自分には、できないことがある」

「私は何でもできる人間ではない」

と認めることによって人との関係がより深まることもあります。


そこで「失敗してもいい」という考え方の中で、

私は少しだけ慎重に扱いたいと思うことがあります。


なぜなら世の中には一定数

人の失敗を待っているような人もいるから。


応援しているように見えて監視するようにずっと見ている。


「どうなるか楽しみにしているよ」と言いながら、

相手がどこまで進んだのかを確認している。


自分より高いところへ行かないか。

自分の知らない世界へ行かないか。

そして、もし転んだら、「やっぱりね」

と、自分の立っている場所を確かめる。


実際そんな人に私は出会ってきました。


人は、一度「自分は上のほうにいる」と感じると、

その場所を手放しにくくなることがあります。


だから私は必ずしも、

未完成でいることと誰にでも自分をさらけ出すことは違う

と思っています。


弱さを見せる相手は、自分で選ぶ。

助けを求める相手も選ぶ。

自分の「途中」を、

誰にでも容易く見せないこと。

そして同時に、誰かの「途中」を、

自分の優位性を確認するために使わない。


ここだけは極力間違えたくないと思っています。


これは私が、未完成な人生を生きるうえで、

特に大切にしていることです。


失敗は、完成から遠ざかる出来事ではなく、

自分のものさしをつくっていくプロセスの中で

非常に大切な情報になるのかもしれません。


アーユルヴェーダにも、生まれ持った自分(プラクリティ)と今の自分の状態(ヴィクリティ)を分けて見る考え方があります。


昨日の私と今日の私は、同じ私だけれど、同じ状態ではありません。

季節も変われば環境も変わるし身体も心も変わります。


だから、「私はこういう人間だから」と決めつけるより、

「今の私は、どんな状態なんだろう?」と、自分を感じてみる。


そして、そこから次の一歩を選んでいく。


人生の選択をするときも、弱さを見せる場面を選ぶときも

そこにあるのは可能性だけ。


選んだものをどう活かしてゆくか。

選ぶときにはその行く末はわからない。


そのときは

いいカードを引いたと思っても

後で考えたら実はJOKERだった

なんてこともあったりする。


まあそれも

とらえ方次第ですけどね。


失敗したから見えるもの。

誰かに助けてもらったからこそ気づけるもの。

自分の弱さを知ったからこそ、

人の弱さにもやさしくなれること。


そうやって、経験するたびに、自分という人間の解像度が上がっていく。


だから、「まだ何者にもなれていない」と思ったときは、


人生道半ばなのだから何度だってやってみよう。

間違えたって方向を変えてもいい。

誰かに頼ってもいいし、失敗してもまた始めればいい。


ただ、それは

誰かに評価してもらうためのものではなく、

誰かより上に行くためでも、

誰かより下に落ちないためでもないということ。


自分が、自分の人生を生きるための途中なのであって

今日の私が、

何を感じ、何を選び、

誰と出会い、別れ

何につまずき、何を受け取ったのか。


その積み重ねこそが、人生そのものなのかもしれません。


もがいている自分も

迷っている自分も

誰かに頼っている自分も

まだ答えが出ていない自分も・・・


「未完成な生き方」をどんな気持ちで

受け止めているかだろうし

どれだけ愉しんでいられるか。


完成していないからまた選びなおすことができる。

完成していないからまたほかのだれかと出会えるし、

新しい自分にもまた出会える。


人生は完成品ではなく、ずっと「つくりかけ」でいい。

だから私は、そんな未完成な生き方を、心から愉しみたい。


そして、誰かの未完成さも、自分の未完成さも、

優劣をつけずに眺められる人でいたい。


私はそんな風に人生をとらえています。



今日もお読みいただき

ありがとうございます。


今日もあなたにとって

心地よい一日であります

ように・・・

ていねいな暮らしをデザインする

五感を満たす暮らしへと導き、健康美あふれる人をふやし“ツナグ”

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